2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位

授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」

授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」

 

        第11回講義(2007年1月23日)

■小レポート結果■

今週の小レポートの問題として、「「自由であるべし」という規範は、論理法則や自己同一性のような規範、つまり<それを反省してもそれを採用しないことを選択することが困難である基準>のとつになるでしょうか?」を示しましたが、先週講義中に、この問題が曖昧であるという指摘がありました。

 

学生のコメント

佐々木さん:自由を「絶対的自発性」と考えるならば、「自由であるべし」の「・・・べし」という行為の方向を指示する言葉は、「自由」の定義と共存できないので、「自由であるべし」は自己矛盾しているとおもいます。

 

杉之原くん:「「自由であるべし」という規範は、拒否できない所与としての基準ではないかと思います。例えば、自身の奴隷契約の場合です。これから先自分が一生奴隷になる事を了承する契約をした場合、奴隷になるのも自由の講師ですから、契約の瞬間は自由ですが、いったん奴隷になった後は自由であることは出来ません。ですから、「自由であるべし」という規範はそむくことも出来るものであり、それゆえに「規範」と言えるものです」

 

水野さん:「自由=選択できること、と考えれば、「自由であるべし」という規範(拘束)」という言葉に矛盾はなくなると思います。」「自由=選択できる、ならば、命令に従う自由、不自由を選択する自由が出てくると思います。つまり「自由であるべし」も問いで言われているような基準となりうると思います」

 

平野さん:「自由であるべし」という規範とは、さらにどういう基準かを明らかにする必要があると思います。それにもし、自由を「自由になるべし」という規範による選択という風に、この「自由であるべし」を考えるなら、堂々めぐりになるように思われます。」

 「フィヒテは、自由に関し「本性によって規定される」ことを否定していますが、「絶対的活動への傾向」は本性にはならないでしょうか。そうでないのなら、フィヒテは本性をどのように考えているのでしょうか」

 

菅波くん:「自己同一性は、選択の基盤そのものであり、規範ではない。自己同一性による選択が、その人の性格や考え方などを反映するものであり、何からも拘束されていない。すなわち「自由」であるのではないでしょうか。」

三尾くん:「自己同一性の二つの意味の違いがわかりませんでした。」

入江のコメント:人格の同一性は、形式的な同一性です。物語的な同一性は、その人格の内容の統一性のことです。)

「直接的な基準の候補の一つに、論理法則を挙げられていましたが、「これに従わずに思考するのは難しい」という理由で候補に挙がるなら、自然法則も「これに従わずに行為するのは難しい」という理由で候補に挙がっていいと思うのですがどうでしょうか」

(入江のコメント:論理法則に反して考えることと、自然法則に反して行為することは、次元が異なります。現実の世界は、自然法則に従っていると同様に論理法則にも従っています。したがって、我々は論理法則や自然法則に反して行為することは出来ません。しかし、”Faul is fair, fair is faul”というように論理法則(?)に反したことを考えることは出来ますし、計算間違いをすることも出来ますし、また空を飛ぶことを想像することもできます。)

 

原田くん:「先週の杉之原くんのレジュメのコメント「我々は一つの本質的な基準をもつのでなく、複数の基準をもっていて、・・・どんな基準も自分自身とのズレを含んでいる」は、ローティの公私分割のアイデンティティに似ていると思いました。もし我々が複数の基準をもっていて、それは公的な基準すなわち規範と、私的な基準とが混在しているものだとしたら、事態によって我々が下す判断がしばしばケースバイケースであること――そして、我々が下す判断がしばしばその適切さの是非を問われうることがうまく説明できると思います。これによれば、少なくとも意志決定による自由は、公と私の規準のどちらを採用するかの自由に置き換えられるでしょう。」

 

三木さん:「一つ感じたのが、自由という概念が生み出されたからこそ、私たちは「自由であるべきだ」と無意識のうちにこの概念に縛られてしまっている部分が少なからずあるのではないかと言うことです。

そもそも「自由とは、はじめから「モノ」と同じように実在する者ではなく、限定的な場面で与えられるものであるはずなのに、そのよに錯覚してしまっているのではないか、と考えると「自由」とはある意味奇妙で不思議な概念だなあと思いました。」

 

入江のコメント:

学生の皆さんからの指摘にあるように、「自由であるべし」の意味をもう少し明確にする必要があるように思いました。以下、その試みです。

(ア)例えば、カメラを持たない人に「カメラを持つべし」と命令することは理解できるが、カメラを持っている人に「カメラを持つべし」と命令するとすれば、その命令は不条理である。これと同様に、もし人が自由であるとすれば、「自由であるべし」と命令することは不条理だということになるのだろうか。そうではないかもしれない。例えば、これまで英語を話してきた人に、「これからも英語を話すべし」と命令することは不条理ではないのと同様に、これまで自由であった人に、「これからも自由であるべし」と命令することは不条理ではないだろう。

(イ)例えば「納豆を食べるべし」という命令が与えられるとしたら、その場合には、「納豆を食べることも、食べないことも、どちらも可能である」ということが前提されている。それと同じで、「自由であるべし」という規範は、「自由であることも、自由でないことも、どちらも可能である」ということを前提することになるだろう。しかも、「自由であることと自由でないことの間の選択が可能である」ということも前提している。そのような選択は、本当に可能なのだろうか?

(ウ)論理法則という規範についての再考

 「論理法則に従って考えるべし」という規範は、「論理法則に従って考えることと論理法則に従わずに考えることの間の選択が可能である」ということを前提している。このような選択は本当に可能なのだろうか。先週は、そのような選択は可能ではないかのように述べた。つまり、論理法則に従わずに考えることは不可能だと述べた。

たしかに、矛盾律を否定すると、直ちに自己矛盾に陥る。しかし論理法則に反したことを言うことはできる。我々は意図的に間違った計算結果を語ることが出来るし、また意図せずに、計算間違いをしてしまうこともある。これらは、我々がつねに論理法則に従って考えているのではないということを示しているし、また我々が論理法則に従わないで考えることができることを示しているのではないのか。

もっとも、論理法則に従わないで考えるといっても、それはほんの少し規則違反するという程度のことであって、全面的に論理法則に違反するとおそらくは、無意味な振る舞いとなって、考えているとはもはや言えなくなるだろう。

「論理法則に従って考えるべし」という規範は、部分的にならばそれに反することが出来るので、それに従うことと従わないことの選択の余地が残されている。したがって、その規範は、そのような選択の可能性を前提することができ、規範として成立する。

(エ)「自由であるべし」についても、論理法則と同様に考えられるかもしれない。

(オ)我々が思考するとき、それは常に自由に思考するということなのではないだろうか。我々が思考するとき、(常にではないとしても、ほぼ大体)論理の規則や言語の規則に従う。そうしなければ、我々は思考することが不可能になるからである。

ただし、規則に従うことは、単に規則的に振舞うことではない。Aは規則Rに従うとは、

(1)Aの行為Bが、規則Rに合致している。

(2)Aは、規則Rに合致することを意図して、行為Bをおこなう。

 

「規則Rに合致することを意図する」ということは、次のように言い換えられるだろう。「「あなたは規則Rに合致して行為していますか」と問われたときに、観察によらずに即座に「はい」と答えることが出来る。」

思考は、論理規則や言語規則に従う。しかし、これは規則に従うという自発的な行為であり、我々が思考において自由であるという主張と矛盾しない。

 

§8 フィヒテの自由および道徳の超越論的論証(つづき)

 

1、アンスコムの「実践的知識」概念による解釈

 

 フィヒテは、道徳性の原理を知的直観によって知るのだと述べいる。そこでは、絶対的自発性への衝動の知は、観察によるのでも、推論によるのでもないという。

 

フィヒテは、何かを意欲しているものとして自己を見出すこととして、具体的な自己意識を理解している。その自己意識は、アンスコムのいう実践的知識と大変近い。アンスコムは、「何をしているのか」と問われて「私はコーヒーを淹れています」というような知を実践的知識と呼んだ。それは観察によらずに即座に得られる知であるという。これは自分の行為についての知である。しかし、我々はこのような実践的知識が、様々な知を背景知として前提していると考えることが出来る。

たとえば、「私はコーヒーを淹れています」は「これはコーヒーの粉である」「私はコーヒーを淹れることができる」「私はコーヒーを淹れようと欲している」「私は自由に行為している」「私は存在する」などである。

 

 我々は「私はコーヒーを淹れています」という実践的知識から、経験的な内容を捨象することによって、「私は自由に行為している」という知を取り出すことが出来るだろう。

 もちろん、之だけならば、我々は、行為するときに自分が自由であると考えている、という事実を指摘するだけである。そのように考えているという事実から、その考えが正しいということを導出することは出来ない。

しかし、ここでフィヒテの超越論的論証にならって、我々は自己を意識しなければ存在せず、自己意識があるときには、つねに「何をしているの」と問われたならば、観察によらずに即座に「私は、・・・している」と答えることが出来、その答えにはつねに「私は自由に行為している」という背景知が前提されているとすると、我々は、自由なものとしてしてしか、自己を意識することは出来ない。ゆえに、我々は自由である。

 

2、「我々」の実践的知識、共有知による展開

「我々は、我々を自由なものとして、意識せざるを得ない」ということから、「我々は自由である」を導出することは出来ない。我々は「我々は自由である」と考えるが、それを反省すると、「我々は我々を自由なものとして意識せざるを得ない」と知る。しかし、そのとき、我々が、そのように意識するのは、自由に意識するのである。ゆえに、我々は自由である。

 

「君達は何をしているの」と問われて、「我々は野球をしています」と答えるとき、それが「我々の実践的知識だとしよう」このとき、この知識には、「ここは野球場である」「あれはベースである」「我々は野球が出来る」「我々は、自由に行為している」などが、背景知として伴っているといえる。

 さらに「私は、センターを守っている」もこの背景知識の一部である。もちろんこれは「君は何をしているの」と問われたときに、「私はセンターを守っています」と答えるときには、私の実践的知識である。しかし、それは「我々の実践的知識」の背景知でもある。それとおなじく、「彼はライトを守っています」もまた、「我々の実践的知識」の背景知である。それゆえに、「私はセンターを守っています」「彼はライトを守っています」「ここは野球場です」は我々の共有知である。「彼は、自由に行為しています」「彼は自由です」もまた、共有知だといえるだろう。「我々は、野球をしています」の背景知として、「私は自由である」「彼は自由である」が共有知となっている。

 

<<期末レポート>>

テーマ:講義内容と関連したものであれば、自由

分量:4000字程度

用紙:A4;40字30行。

締め切り:4回生以上、修士2回生以上は、2月5日(月)締め切り

     その他の学生は、2月21日(水)締め切り

提出場所:入江のメイルボックス